台湾の日本語教育

 台湾の日本語教育について話そうと思います。とっても現在の日本語教育ではありません。
 日本の台湾統治時代の国語教育です。
 
  台湾の年配者の中には今でも日本語が上手な人が多くいます。
 友人の祖父は、テレビはいまもNHKを見ています。読む本も日本語です。中国語の本は読めないと言っていました。

 高齢者の夫婦の仲には今でも日本語で会話する人がいます。
 私も以前バスの中で台湾語・日本語を交えて話す人を見たことあります。

 何度も日本語で会話する台湾人を見かけたことがあります。しかし台北で客家語で会話する人を見たのは二度しかりません。(もちろん客家人の家庭の中では話されている)

 以前、喫茶店である男性が孫(曾孫?)に数字を教えている姿を見ました。その男性はずっと台湾語で話したいましたが、孫は中国語をしゃべります。
 その男性は中国語で話そうとして、間違ったのか、日本語で「いち、に、さん、よん」と言ってました。
 私は隣で聞いていて、笑いをこらえていました。
  

 

現在の日本語教育

 日本語を学習する台湾人は多くいます。高校生ではクラスに二、三人(勝手な想像)ぐらいいると思います。大学では外国語の授業で日本語を選択する人は多いです。 でも、面白半分で勉強しているのか、話せるレベルになる人は韓国人より少ない(文法の違いもあると思う)

 

1895  芝山巖学堂創立     


 

 台北市士林に「士林国民小学」という学校があります。100年以上の歴史があります。その初代校長が伊沢修二です。伊沢修二が創設した芝山巌学堂をこの小学校の始まりとしているのである。

彼は自ら教育活動のため進んで台湾へ渡りました。明治二十九年には台湾総督府学務部長となっています。
 
5月18日、台湾総督府の始政式の翌日に、台北で仕事を開始した。台湾統治の初日に教育行政を開始しました。
 伊沢などの人材の投入や、初日からの教育機関の発足みると、当時、明治政府の台湾統治への意気込みが分かる。

伊沢は、6月26日、台北士林の芝山巌にある廟を借りて、学堂を設立した。地元の人に「自分たちがここに来たのは戦争をするためでも、奸細(探偵)をするためでもない。日本国の良民とするための教育を行うためだ」と説いた。地元民たちは10代後半から20代前半の子弟を6名を選び教育を受けさせた。

 
学堂では日本人教師と台湾人生徒が同じ部屋で生活をした。日本語教育のほかに、礼儀作法なども教えた。
 わずか6人の修
了式のために数十名の軍楽隊が門出を祝ったそうだ。

 ただ一つ悲劇が起こっている。学堂の創設された翌年の正月、日本人教員6名が土着の匪賊に惨殺されたのだ。土着の匪賊は
日本人の首で賞金が貰えるとの噂を信じて、6人の首級をあげ、所持品・着衣を奪い、さらに学堂に上って略奪に及んだ。
 
この犠牲者を祀る「六士先生之墓」は、戦後蒋介石政権によって破壊されていたのだが、士林国民小学の校友会の手によって再建された。



伊沢は、台湾においては、フランスのように宗主国の言語・文化を押しつけるのではなく、またイギリスのような愚民政策でもなく、第三の「混和主義」を採るべきである、と主張した。所謂、同化政策の先駆けだ。


 
統治開始後10年を経た明治38年時点で、台湾人の日本語理解者0.38%に対して、台湾在住の日本人の台湾語理解者は約11%。伊沢の混和主義は着実に実現されていったのである。

 


若いころの伊澤修二。


 原住民の日本語教育。


  続きはまた明日にでも書きます。 (10月23日)
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