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台湾の歴史  

  台湾の歴史について書いていこうと思う。 文献による歴史だけでなく、考古学の観点からみた台湾も紹介します。
  台湾は北南に細長い薩摩芋のような島です。面積は約3万6千平方km、アジア大陸の東南、太平洋の西岸の東アジア諸島の間にあります。北は日本沖縄諸島、南はフィリピン諸島に接しています。
       @ 考古学から見た台湾 maptaiwan.gif
       A 原住民社会 (古代中国の文献)      
         B  国際競争時期 (漢人 日本人 オランダ人 スペイン人)
     C 鄭氏王国台湾統治時期

 

 
   
   

 @ はじめに考古学からみた台湾

   八仙洞      

  旧石器時代

 台東区の長浜郷の八仙洞で五万年から三万年前ぐらい
の遺跡・石器が発見されています。一万数千年前はまだ氷河期で、台湾と大陸は陸続きでした。この文化は5千年前に姿を消している

 台南で3万年ほど前の左鎮人の歯と頭蓋骨が発見されています。

新石器時代 

 
 
 
『月形石柱』

『卑南文化』2000〜3000年前。


 
新石器時代
初期約7千万年前から八里で『大坌坑文化が現れた。 この大坌坑文化は中国華南から台湾までおよんでいます。おそらく船で華南から渡ってきたのでしょう。縄紋の陶器の文化です。 狩猟や漁撈が主だが、原始的な農業も始まっていたらしい。

 新石器時代中期。4500〜3500年前。北部の芝山岩文化・南部の墾丁文化で、稲作が始まる 、しかし、原住民の農場は「アワや芋」のほうが主流だった黒陶も見つかる。これは大陸の文化が伝わった形跡である。

 新石器時代末期。3500〜2000年前には、台湾全土で農耕が広まり、家畜が飼育され始め、定住型集落が形成された。また、死者を埋葬し、埋葬品が発見された。どうして死者に物が必要なのか? 死後も使うためか? すでに原始宗教的な信仰があったとみられる。

 台東の『卑南文化は出土品の種類も多く、洗練されている。石柱、石棺、石臼ほか陶器や玉もある。
 ちなみに、卑南文化と先住民族の卑南(ピュマ)族とは関係はない。今のところ、卑南文化が何族の祖先であるかについては、まだ学者や専門家の間で証明されていない。阿美族の先祖の説が有力?

金属器時代 1600〜400年前

右は100年ほど前、アミ族の写真。
 
 時が流れ、金属器時代。 台湾には青銅器時代はない。 金属は主に『鉄』、または『銅』。しかし、まだ石器文化も残ってる。  
 有名なところでは、北部の八里「十三行文化」、中部の大甲「番仔園文化」、台南の「蔦松文化」、台東の「静浦文化」(アミ族の先祖)がある。また静浦文化は台湾では珍しいガラス器がある。


 


 

 

 

 A 原住民社会

南島語族(オーストロネシア語族)

台湾原住民の言語が古い形を保っている。南島語族は台湾からフィリピン、インドネシア、マレー半島と南下し、さらにはインド洋を越えマダガスカル島に達した。また東の南太平洋の島々にも拡散したとされる。

その特徴は「首狩り」、「室内葬」などの習慣があり、先祖・自然神の崇拝もある。

 

 

 

 台湾原住民の多くは南島語族と見られている。
言語・文化・習俗によって細分化されており、その分類の仕方はまちまちである。大きく分けて「平埔族(平地に住み漢化した)」と「高山族(漢化が進んでいない)」である。日本統治時代は高山族を「高砂族」と呼んだ。

 平埔族は清の時代から漢化が始まった。現在ではその人口は定かではない。シラヤ(西拉雅族)は最も早く鄭成功の時代のころから漢化が進んで消失している。習慣も漢民族風に変えられ、苗字も漢の姓に変えた。多く『』という姓を名乗っている。

多くは母系社会で女子が家を継ぐ、入り婿をとる。
 

平埔族

ケタガラン(凱達格蘭族)
クーロン(亀崙族)
バサイ(馬賽族)
クバラン(葛瑪蘭族)
トルビアワン(哆囉美遠族)
タオカス(道卡斯族)
パゼッヘ(拍宰海族)
パポラ(拍暴拉族)
バブザ(巴布薩族)
ホアニヤ(洪雅族)
アリクン(阿立昆族)
ロア(羅亞族)
シラヤ(西拉雅族)
マカタオ(馬卡道族)

漢化が進んだ原住民で現在ではその数を知ることはできない。ただ台湾人の中には原住民の血統が混じっていると思われる人が多い。 肌が黒く、顔の彫が深い。 ただ本人たちもよく知らないようで、原住民の血統が混じってないという。最近、遺伝子学会「台湾人は実は漢民族と全く異なる南アジア・越族の子孫である」との研究結果発表しました。

平埔族は八部族に分類できる(12部族とも)。その特徴は、多くが母系社会である。女子がその家や財産を継ぐ。また壺信仰もある。狩猟や漁撈をし、またタロイモ、粟などの栽培も営んでいた。


 

 

 高山族



 
台湾高山族に関しては今後も紹介していく予定です。  
 

必ずしも山に住んでいるというわけではない。漢化が進んでいない部族である。九部族といわれていたが、最近11部族に細分化された。

 
タイヤル族(泰雅族、アタヤル族とも)
サイシャット族(賽夏族)
アミ族(阿美族)
ツオウ族(鄒族)
ブヌン族(布農族)
プユマ族(卑南族)
ルカイ族(魯凱族)
パイワン族(排湾族)
タオ族(ヤミ族)(達梧族、雅美族とも)


サオ族(邵族)
タロコ族(太魯閣族、セデック族とも)
 

タイヤル族(泰雅族 
 最も広範囲に分布している。南投、新竹、烏来にもすんでいる。
 現在でも
タイヤル語で話している人がいます。

サイシャット族(賽夏族)   小人伝説。
 2年に1回(旧暦の10月)巴斯達隘(パスタアイ)を、そして10年に1回の大祭を行います。
アミ族(阿美族)
住民族のなかでもっとも人口が多い。花蓮から台東にかけて暮らしている。台湾人のイメージでは踊りがうまいと思われている。
  ツオウ族(鄒族)
南投県、 嘉義県、高雄県に住む。現在人口6000人ほど。厳格な父系氏族社会
   

 元の時代。元は「瑠求(台湾)」へ派兵した。そのとき数人の南方系言語の通訳を連れていったそうです。その中の一人が台湾原住民と会話ができたそうです。そのときの派兵では台湾を制服できませんでした。どうしてか? それは当時台湾には国家がなく小さな部落が各地にあっただけです。 小さな部落を制服しても、先に進むと、すぐ違う部落が現れます。そこを占拠し奥に進んでもまた他の部落と続きます。きりがなく元軍は引き返しました。
もし統一国家があれば、その王なりを捕らえれば、国を征服できます。

 

B 国際競争時期 (漢人 日本人 オランダ人 スペイン人)

 


 漢人の活動


原住民だけの土地に、外来の民族が居座る。
15世紀ごろ、台湾は海賊や漁民たちの住処になっていた。
林道乾、林鳳、倭寇などの海賊が台湾、澎湖島で活動していた。
 

ポルトガル人の活動はほとんどない。
台湾には美麗島という別称があるが、それは台湾を始めて見たポルトガル人船員がその美しさに感動して「Ilha Formosa(麗しの島)」と叫んだという伝承に基づいている。
 
 日本人の活動

倭寇以外にも台湾での日本人の活動はあった。雞籠基隆)や打狗(高雄)を拠点として、黄金や硫磺の貿易を営んでいた。
1636年日本が鎖国するまで続いた。

1593 豊臣秀吉、台湾に入貢を促す。

1626 濱田彌兵衛

オランダは外国船から10%の関税を取り立てようとした。中国商人はこれを受け入れるが、日本の商人は拒否した。もともとオランダが来る前から、日本はここで貿易をしていたにもかかわらず、後から来たオランダが税金を取ることに納得できなかったのだろう。
その中に、長崎代官末次平蔵が派遣した商船があった。その船長が、濱田彌兵衛であった。オランダは、ピーテル・ノイツを台湾長官に任命し、日本に派遣し幕府と交渉することにした。
1627年7月ノイツが浜田弥兵衛ら現場の人間を無視したことに怒った弥兵衛らは、先住民14人を連れて、ノイツのあとを追って平戸に入り、先住民に台湾全土を将軍へ献上すると言わしめた。末次平蔵は、先住民一行を台湾からの朝貢使に仕立てて江戸へ送った。そのため江戸では、ノイツらを正式な使節として認めず、将軍との謁見も拒否され、台湾へ帰らざるを得なくなった。一方先住民の一行は、将軍に謁見した。
  これに怒ったノイツ翌1628年、台湾に戻ってきた彌兵衛らに対し、武器を没収し、船員と先住民らを拘束し、また将軍からの賜品も没収した。
そこで今度は彌兵衛が、6月29日、約170人の手勢で長官府を襲撃して占領、ノイツら5人を拘束した。
  その後お互い人質を5人ずつ出して、長崎で双方解放することで合意した。もちろん、没収されていた品や先住民も解放させた。

 

オランダ人の活動

1604年、澎湖島を占領、明朝の沈有容が赴き、明の領土を主張その過程で台湾なら占領してもかまわないと約束した。明は台湾を自国領土と認めていなかったことになる。

1622年 オランダ人は再び、澎湖島を占領。二年後に台湾に移る。

オランダ時代(1624−1661)

1624 オランダ、台湾を占領。現在の台南にゼーランジャ城(現在安平古堡、プロビンシャ城(現在赤崁樓を造る。



ゼーランジャ城

オランダ人は、シラヤ語やファボラン語をローマ字で表記する方法を開発し、聖書などのキリスト教布教用の現地語文書を作成し、これを原住民に教えた。このローマ字による書字法は、土地契約文書新港文書においても使用されるなど、清代においては、実用的な役目も果たしたのです。
当時シラヤ族の80%が聖書を読めたという。

1626 スペイン、基隆(キールン)を占領。サン・サルバドル要塞を造る。

1628 スペイン、淡水(タンスイ)を占領。サン・ドミンゴ要塞を造る。

1642 オランダ、台湾北部からスペインを追放。


1652 オランダに抵抗する郭懐一の蜂起。
オランダ人は漢人の生産活動に介入し、重税を課し、蔗糖業の不振もあり漢人に不満が増大、郭懐一はオランダに対する叛乱を計画した。しかし郭懐一の叛乱計画は事前に密告によりオランダ側に知られる。郭懐一は1652年9月7日、普羅民遮城(Provintia)を攻撃した。しかし郭懐一は同日に戦死し、叛乱軍は全滅、この叛乱により殺害された漢人は数千人に及んだ。
 

スペイン人の活動 

1624年にオランダ台湾を占領したことは、マニラのスペイン人にとって脅威だった。1626年マニラのスペイン人は大型船二艘、他小型船十二艘三百名を台湾に向かわせた。五月五日フィリピンを出発。台湾東海岸を北上、十二日雞籠基隆に到着した。
十六日、雞籠港内社寮島(現在の和平島)で
占領式を行った。セント・サルバドール城(San Salvador)」を築城した。

もちろんそれはすぐにオランダの知るところとなる。明朝や日本との貿易に支障が出ると考え、1628年にオランダは台湾北部の淡水に侵攻した。当時すでにスペインは淡水を占拠、
セント・ドミンゴ城(Santo Domingo)(現在の紅毛城を建設していた。1629年、オランダは淡水のスペイン人に攻撃するも、失敗に終わった。

スペインは、
オランダ人に学び、宣教活動の一環で、賽夏の言葉をローマ字表記した「淡水辞彙」を制作した。

また
スペインは台北近郊の北投における硫黄の採掘や布教医療としてのマラリア治療を通して西洋医学の知識などを広めた。

占領要員の多くが先住民の襲撃、マラリアなどの風土病に遭いスペインの占領態勢の弱体化につながった

その間にもオランダはスペインのことをつぶさに偵察し、
スペインの弱体化を見たオランダ、1642年、鶏籠に艦隊を派遣しスペイン人勢力を攻撃、3ヶ月の攻防により台湾北部からスペインを追放した。スペインの16年間に渡る台湾北部の占領が幕を閉じた。

紅毛城






 

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