台湾朝鮮皇民化運動の比較

 
 皇民化運動に関する研究は戦後各種の原因により未だ不十分である。特に台湾の戦争時の研究は始まったばかりである。
 このレポートの主旨は、台湾と朝鮮で
の皇民化運動実施の概況。及び二つの地区での同一運動に対する反応の比較である。
 日本植民地政府による、台湾・朝鮮の
皇民化運動の性質は基本的におなじである。しかし、策略上は違っていた。その被植民地の人の反応もそれぞれ大きな違いがあった。

 
皇民化運動はその理念構成から見たら「同化主義」の形式で、実際の需要から見ると、日本の戦争動員の一環である。
 
皇民化運動の基本目的は植民地の人民を「本当の日本人」に変えることであ。
 
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京城の陸軍志願兵訓練所で手紙の書き方を習う朝鮮人
 

  北斗公學校學生神社參拜
   しかし、どうして植民地に「本当の日本人」が必要だったか?
 第二次世界大戦で東亜戦線の拡大に伴い、日本内地の資源だけでは負担が出来なくなり、どうしても植民地区の民衆を動員せぜるをえなくなった。
 
     
 

皇民化運動の開始とその呼称問題

 
 皇民化とう字は 1936年末ごろ台湾で始めて使われた。「皇国の臣民」という意味だ。1936年9月第17代台湾総督に就任した小林造は「皇民化」・「工業化」・「南進化」の方針をたてた。このころ「皇民化運動」が開始したと言っていいだろう。

 韓国では1937年10月韓国総督府は「皇国臣民の誓詞」を公布した。これを集会時などで暗誦するよう決められた。

 小林躋造(こばやし せいぞう)
   台湾人には、このような要求はなかった。どうしてだろうか? それぞれのバックグラウンドの違いだと思われる。 朝鮮はもともと独立した民族国家だった。清朝が台湾を建省して間もない。また下関条約で台湾が割譲されたときも、二年の猶予で、台湾に残るか中国に移るかの選択権が与えられた。
 

宗教の改革

 

   皇民化運動にはまた、台湾固有宗教を抑圧し、日本の新道を提唱する目的がありました。
 台湾には過去68社の神社がありました。それに反比例して台湾の寺、廟宇は減少しました。しかし朝鮮せは神社の建造はとても遅かったです。 日本が敗戦した当時、74社でした。
 台湾では神社参拝が学校行事として決められました。これは日本内地、朝鮮では見られません。
 しかし、朝鮮人のほうが、反感は激しかったです。終戦後、朝鮮各地で、神社に放火する事件が相次ぎました。

 
桃園神社(現 桃園縣忠烈祠)

五時に閉まります。
桃園神社と言っても現地の人は分かりません。
 
       国語(日本語)教育  
 皇民化運動でもっとも重要で且つ成功したのは、日本語教育だろう。始めは植民地区の言語を排除することはなかった。しかし、後に学校で現地の言葉の授業は姿を消した。194年台湾で日本語を話せる者は全体の80%に達した。

 しかし、韓国ではこの割合は低い。その要因は非植民地の時期が短いのと、人口が多く促進が困難であること。他に元々朝鮮人の識字率が台湾人よりも低かったのも原因の一つだろう。
  改姓名運動
   台湾では改姓名は『許可制』であって、強制ではなかった。
条件は家族が日本語を話せなければならなかった。

 しかし、朝鮮では強制的だったようです。

 日本の植民地統治は台湾に対しては温厚で、朝鮮に対しては厳格だったようです。
台湾、朝鮮で『黄』という姓の中には日本名を「共田」と変えた人がいました。
  志願兵制度  
 日本が中国に侵攻以前は、台湾人・朝鮮人ともに兵役はありませんでした。
 しかし、満州事件後、朝鮮人の兵役問題が軍部内で議論されるようになりました。
 そして1938年に朝鮮の志願兵制度が成立しました。
 志願者は面接と試験(国語・国史・数学)を受けなければなりませんでした。

高砂義勇隊慰霊碑の移設
李登輝さんが来られました

 戦争の規模の拡大に伴い、台湾でも志願兵制度が開始されました。1942年1000名の募集に対し、425921名の志願がありました。二回目の募集では601147名の志願。

 どうしてこれほど多くの台湾人が志願したのでしょう?

 世間の圧力があったかもしてません。また志願兵は島民の最高栄誉だと奨励され、青年たちの集団的心理もあって多くの台湾人が志願したのではないだろうか? もちろんそれまでの皇民化運動の成果が大きい。同じような奨励は当時朝鮮のメディアでも見られた。
中村輝夫(台湾名:李 光輝)
アミ族の名前はスニオン


 
多くの高砂族(台湾原住民)が志願しました。  また戦場での活躍で、日本人には負けてないという証拠を見せることもできた。 1974年12月26日に、インドネシアのモロタイ島で元陸軍一等兵中村輝夫(台湾名:李光輝)が救出された。
レポート制作はしんどい。

さいごに

 朝鮮総督府の皇民化運動の行使は台湾のそれよりも、厳しいものがあった。しかし戦後、韓国で皇民化運動の影響はほとんど消え去った。
 台湾では青年の性格から「中国性」がなくなり、薄い中国の性質と、戦後台湾に渡ってきたマイナス面を集めた「中国性」、陳儀政府との衝突で「2・28事件」と言う悲劇が発生してしまった。
 二ヶ所の植民地は表面上は似てても、植民地政府の採取的策略が違い、民衆の反応も異なる。さらにその後の影響も大きく違う。
 
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