島夷 |
『尚書・禹貢篇』に出てくる台湾かもしれない島。 |
瀛洲(えいしゅう) |
『史記』に書かれている、東海の島。
始皇帝の時代東海に蓬莱・方丈・瀛洲という三神山があって仙人が住んでいるといわれた。 |
夷洲 |
『三国志・孫権伝』(後漢・三国時代(25-280))に孫権が派兵したと言われる台湾と思われる島。 |
流求国 |
『隋書』に登場する、台湾と思われる島。 |
長濱文化 |
1964年、台東区の長浜郷の八仙洞で五万年から三万年前(旧石器時代)ぐらいの遺跡・石器が発見されてた。
この文化は5千年前に姿を消している。 |
左鎮人 |
台南県左鎮で発掘された。ホモサピエンス。「長濱文化」は左鎮人の文化だと思われる。
年代は約三万年前。(最近、アマチュア化石愛好家が収蔵する二つの臼歯の化石が、これより古いものである可能性が出てきた) |
大坌坑文化 |
新石器時代初期、約7000万年前から4700年前の遺跡。1964年に八里発見された。
この大坌坑文化は中国華南から台湾までおよんでいます。縄紋の陶器の文化です。
狩猟や漁撈が主だが、原始的な農業も始まっていたらしい。 |
芝山岩文化 |
1986年台北市士林芝山岩付近で発見。約3600年前の文化。圓山文化よりも古い。 |
圓山文化 |
台北市中山区の圓山という丘で発見された。約今から4500年前から2000年前の遺跡。
後期(約2700年前から2000年前)台北市植物園遺跡は「植物園文化」ともよばれる。 |
植物園文化 |
圓山文化を参照。 |
細繩紋文化 |
新石器時代の中期。台湾の広範囲の沿岸に分布。若干河川でも発見されている。 |
十三行文化 |
台湾北部の海岸と台北盆地に分布。約2300年前に出現。金属器時代の文化で、鉄器などを使っている。 |
靜浦文化 |
金属器時代、台湾花蓮、台東海岸一帯の文化。鉄器の他にもガラス器、陶器などもある。現在アミ族の祖先ではないかと思われている。 |
蕃 |
明代のころ台湾原住民を「東蕃」とよんでいた。清代には平地に住む漢化が進んだ原住民を「平埔蕃」・「熟蕃」などと呼び。 山岳に住む漢化が進んでいない原住民を「生蕃」や「高山蕃」と呼んでいた。原住民の村は「蕃社」などと呼んだ。 |
南島語族
(オーストロネシア語族) |
300〜500種類の言語がある。台湾原住民
は南島語族である。台湾の言語が古い形を保っている。南島語族は台湾からフィリピン、インドネシア、マレー半島と南下し、さらにはインド洋を越えマダガスカル島に達した。また東の南太平洋の島々にも拡散したとされる。
特徴は「首狩り」、「室内葬」などの習慣があり、先祖・自然神の崇拝もある。 |
平埔族 |
漢化が進んだ原住民で現在ではその数を知ることはできない。平埔族は八部族に分類できる(12部族とも)。その特徴は、多くが母系社会である。女子がその家や財産を継ぐ。また壺信仰もある。
狩猟や漁撈をし、またタロイモ、粟などの栽培も営んでいた。
清の時代、教化を受け、漢民族の生活スタイルに変っていった。苗字も中国人の姓に変えた。多く「潘」という姓に変えた。
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タガブラン族
シラヤ(西拉雅族) -------------l--- タイボアン族(大満)
(最も早くにに漢化)
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マカタオ(馬卡道族)
ホアニヤ(洪雅族) -------------l---
アリクン族(阿里坤)
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ロッア族(羅亞)
パポラ(拍暴拉族)
パゼッヘ(拍宰海族)
タオカス(道卡斯族)
l--- バサイ(馬賽族)
l--- ルイラン族(雷朗)
ケタガラン(凱達格蘭族) --------l--- トルビアワン族(哆囉美遠)
l--- クーロン(亀崙族)
クバラン(葛瑪蘭族)
バブザ(巴布薩族) (貓霧捒) |
高山族
(高砂族たかさごぞく) |
必ずしも山に住んでいるというわけではない。漢化が進んでいない部族である。九部族といわれていたが、最近11部族に細分化された。
タイヤル族(泰雅族、アタヤル族とも)
祭團組織
サイシャット族(賽夏族)父系社會
アミ族(阿美族) 母系社会 神像彫刻
ツオウ族(鄒族)
父系社會
ブヌン族(布農族)
父系社會
プユマ族(卑南族)
母系社会 神像彫刻
ルカイ族(魯凱族)
貴族社会
パイワン族(排湾族) 貴族社会
神像彫刻
タオ族(ヤミ族)(達梧族、雅美族とも) 漁團組織
新しく分類された。
サオ族(邵族)
タロコ族(太魯閣族、セデック族とも) |
タイヤル族
(泰雅族、アタヤル族とも) |
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サイシャット族(賽夏族) |
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アミ族(阿美族)
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ツオウ族(鄒族)
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ブヌン族(布農族) |
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プユマ族(卑南族)
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ルカイ族(魯凱族)
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パイワン族(排湾族)
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タオ族(ヤミ族)
(達梧族、雅美族とも) |
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サオ族(邵族)
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タロコ族
(太魯閣族、セデック族とも) |
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林道乾líndàoqián
(りん どうけん) |
16世紀の初頭、福建省泉州に生まれる。明代の海賊。
海賊としての名声を得たために、明朝政府から目をつけられるようになった。
和冦との海戦で大勝した明の艦隊は、林道乾に狙いを定め、澎湖列島から台湾へと林を追撃します。林は、ベトナム、タイへと南下を続け、パタニにたどり着きました。
パタニ王に謁見した道乾は、その人材を見抜かれ、家臣として重用されます。マレー女性と結婚し、イスラム教に改宗、爵位を授与された。 |
新港文書 |
シラヤ語で書かれた土地売買及び租借に冠する契約文書。
オランダ人は、シラヤ語やファボラン語をローマ字で表記する方法を開発し、聖書などのキリスト教布教用の現地語文書を作成し、これを原住民に教えた。このローマ字による書字法は、土地契約文書においても使用されるなど、清代においては、実用的な役目も果たしたのです。
当時シラヤ族の80%が聖書を読めたという。 |
濱田彌兵衛 |
オランダの台湾統治時、オランダは外国船から10%の関税を取り立てようとした。中国商人はこれを受け入れるが、日本の商人は拒否した。
濱田彌兵衛が既得権を主張し、税の納入を拒否した。平戸のオランダ商館が、日本貿易の悪影響を懸念して、バタビヤの総督に善処を要望したが、打開策ないまま、1628年浜田弥兵衛らがオランダ台湾長官を襲撃した。オランダ貿易中断、オランダが譲歩するが10%の関税は撤廃されなかった。
長崎の住人浜田弥兵衛というものが壮年の頃フィリッピンへ渡り(1624)、眼鏡造りを習い、生島藤七というものに教えて造らせたのが、眼鏡の始まり。
後日、濱田彌兵衛は、いつも台湾での武勇伝をハナにかけていたそうだ。 |
郭懐一
(かくかいいち) |
福建省泉州同安県に生まれる。オランダ統治下の台湾で活躍した。郭懐一は現在の台南県永康市一帯で開墾に従事していた入植者である。
オランダ人は漢人の生産活動に介入し、重税を課し、行動を制限した。また漢人が原住民を娶るとき、強制的にキリスト教に改宗させられた。蔗糖業の不振もあり漢人に不満が増大、郭懐一はオランダに対する叛乱を計画した。しかし郭懐一の叛乱計画は事前に密告によりオランダ側に知られる。郭懐一は1652年9月7日、普羅民遮城(Provintia)を攻撃した。しかし郭懐一は同日に戦死し、叛乱軍は全滅、この叛乱により殺害された漢人は数千人に及んだ |
セント・ドミンゴ城
(Santo Domingo)
聖多明哥城
(現在の紅毛城) |
1626年、スペイン人により建造された。その後は、オランダ、清の所有を経て、1868年にイギリスが領事館を設置した。
1980年6月30日に正式に台湾政府の所有となり、1984年12月25日に一般へ開放され観光が可能となった。 |
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赤崁樓
(せきかんろう)
原名「普羅民遮城」プロビンシャ城 (Provintia)
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台湾台南市中西区にある。オランダ人によって築城された旧跡である。原名は「普羅民遮城」(Provintia)。
1653年にオランダ人と漢人の衝突事件である「郭懐一事件」(1652年)の後に築城された。鄭成功が台湾を占拠すると、普羅民遮城は「東都承天府」と改められた。 |
ゼーランジャ城
安平古堡 |
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